正義について思うところ。

未だ完全オンライン授業を受けているので、皆が出勤や通学をする中一人だけ家でくつろいでいるのが申し訳なく感じてしまう、そんな大学生活を送っております。いかがお過ごしでしょうか。

 

突然ですが皆さん、正義とは一体何だとお考えでしょうか。

 

最近、普遍的な正義は存在しないのではないかと考えるようになりました。そういえば日本では正vs悪の正義がメジャーだけれども欧米では公正としての正義が主流だったり。

池袋のひき逃げ事件では被告をこれでもかと袋だたきにしていたのに、某有名人のひき逃げ事件では「こんなに過剰に叩くなんてひどいじゃ無いか」という意見が露見したり。

 

正義とはどこでも通じる普遍的なものではなく、個々人の感情と深く関連していて、意味は人によって異なると。

感情を一切加味しない正義なんて机上の空論というか、実在世界には存在しないんではないかと。

正直死刑制度を巡って国際的にもそうですけど国内でも意見が割れるのは、無感情的な法制度と感情的な正義が対立するからではないかと思うんですよね。

そう言ったわけで、法律、特に刑罰について議論する際は感情に流されるのは良くないけども人々の正義をほんの少し考慮するべきかなと思うんです。

 

まあそんなところだ。

ではまた。

散歩やサイクリングの美点について

昔から運動はあまり好きではなかった。運動で胸のあたりが苦しくなるのが嫌いで、物心ついた時から安静にすることを好んでいた。でも出来ないわけでは無かった。平均並みと言ったところだろうか。

小学生中学年頃から、苦しみや疲れを感じずに体を動かせられるような運動が存在すれば…と思っていた。そんな相反する要素が両立する世界は存在しないことはわかっていて、すぐに諦めた。しかし、両立はしないがそれに近いものがあることもわかっていた。それはサイクリングだった。だからちょっとした移動には必ず自転車を使っていた。走るよりも疲れず、かつ気持ちよく運動できることに強い快感を覚えていた。

高校生になって散歩というものを覚えた。そしてこの歳になって散歩の魅力に気づいた。これも苦しくなったり疲れたりせずにできる運動だ。最近はよく好んでするようになっている。

何で私はこんな運動を求めているのだろう、と時々考えることがある。古代ギリシャの文化からわかるように、強い負荷のかかる運動の美徳が語られてきている。これが人間の本来のあり方だ、とでも言うかのように。頭ではわかっている。が、体はそうはいかない。

そこでふと思った。私の場合、負荷の強い運動をする際は他のことを考える余裕が無い。それでも考え事をすることはあるが、そうするとタイムが下がるなどパフォーマンス面が大きく劣ってしまう。しかし私の求めている運動だと考え事の余裕が生じる。その余裕が貴重な機会にさえなる。だってちょっとしたサイクリングや散歩にはパフォーマンスなんてかけらも無いから。

これには個人差があると思うが、私は運動より思考を好む傾向にある。だから後者を優先できる運動を好むのだろう。ひょっとしたら人間の本質により根ざしているのは運動よりも思考なのかもしれないな。それは考えすぎか。

と言うわけで今日も私は散歩をする。

日本学術会議の件について思うこと。

どうもお久しぶりです。

 

最近起きた出来事で私が非常に懸念を感じている出来事があります。

ええ、題名の通りです。

推薦されたうち6人が首相によって任命を拒否されたあの騒動です。

世間の反応はどうなんだろうとTwitterを覗いたんですが、6人の排除が学問の自由の侵害にあたるのかについて意見している人が多い印象を受けました。

私はそういった意見は少しずれているように思っていまして。

6人が政権に否定的かどうか、学問の自由は守られているのか、というのは勿論重要ですがそこまで必要な論点ではないと思います。残りの方々の中に批判的な方もいるんだからこれくらいで侵害だとか言うのは騒ぎすぎだ!…これも何か違う気がします。

私が問題だと思うのは、任命を拒否した理由を説明しないことです。

拒否したことにそこまで怪しい事情がないのならはっきり理由を説明できると思うんです。でもそこを渋るとはどういうことでしょうか。何か隠しているのではないか…と思われるのも仕方が無いと思いますよ。

昨日か一昨日だったか、菅総理が説明を求められて一応しましたよね。

私もどういうことを言うんだろうか…と気になっていたんですが、全然ぱっとしない説明しかしませんでした。6人をなぜ拒否したのか、抽象的過ぎる説明しかありませんでした。なぜこの6人がだめなのか、具体的な要因の説明がほしかったです。いや、そこまで説明するべきでした。

このままだと、過去に国会で答弁した「任命は形式的なものだ」という発言と矛盾します。つまり嘘をついたことにもなりかねません。例えその答弁が自分のしたものでないとしても。

それどころか、学術会議そのものの在り方の問題に話題をすり替えて…論点をずらすな!と思わず叫んでしまいました。

 

始めの頃は新総理に期待していたんですが、早速私の中の株が急落しました。これから真摯な対応が見られるか待つしかありませんね。

「かわいい」という言葉で総理のマイナスな側面がむやみに覆い隠されてしまっている気がします。ある程度持ち上げることは大切だとは思いますが、今の世間はやり過ぎな気がします。お祝いの浮かれモードを早く脱して、冷静な視点で批評をするべきだと思います。私はこの一件で脱したので皆さんも是非。

 

ではまた。

最果タヒさんに憧れているという話。

こんばんは。お久しぶりです。

 

最近バイトに行く電車内で最果タヒさんのエッセイを読んでいるんですが、「そう!私もそう思っていたの!」と叫びたくなるような共感ポイントが沢山あって読んでいてとても心地よいです。

申し遅れました。『君の言い訳は最高の芸術』という本です。

 

タヒさんのことはずいぶん前から知ってはいました。元々[Alexandros]というバンドが好きで、Sleepless in Brooklyn というアルバムの中にハナウタという曲が入っていたんです。その曲が気に入って、歌詞のことを調べたんです。

そうしたら、タヒさんのインタビューにたどり着きまして。歌詞の中に孤独という言葉が何度も登場するのですが、孤独感について意見を述べていたんです。

すごく共感しましたし、なるほど!と感動しました。この人の考えにもっと触れてみたいと思いました。

 

だから、こうして著者の観念が凝縮された作品であるエッセイを読むことが出来て、とても嬉しいです。一気に読むのはもったいないので少しずつ進めることにします。

 

ではまた。

エゴイズム剥き出し

お久しぶりです。

最近精神的に参っていて本を全然読んでいませんでした。少し回復してきたので再開させたいと思います。

 

実は大分前に『脂肪の塊』を読み終えていたのでそちらの感想を。

何か…本当にひどい話でしたね。「自分が助かれば…」というエゴイズム剥き出しでした。プライドと他人を蔑む心もごっちゃまぜで、非常に短い話でしたが衝撃が大きかったです。

ただ、これはひどいの一言では終わらないですね。そうしたエゴイズムは人間誰しも当てはまることなので、「無意識のうちに自分もこうしたことをやっていたのではないか」などと考えてしまいました。深いですね。

 

読書をサボりがちだったので気持ちを入れ替えて頑張ります!

次は『車輪の下』を読もうかと思います。

 

ではまた。

ウェルテルには共感できない

こんにちは。

 

若きウェルテルの悩み、読み終わりました。

感想…そうですね、あまり共感できない話でした。

熱狂的な愛がウェルテルを死に追いやりましたが、そうした愛があまり好きでないので冷めた目で見てしまいました。現代だったら何かしらの犯罪が起こりそうです。

薄っぺらい感想ですが、まあそんなところです。

次は『脂肪の塊』を読もうかと思います。

ではまた。

テレビリモコンのお話

またまた登場です。

文芸部で活躍し今でも小説や俳句を書いている友達に感化され、ちょっとだけ書いてみました。でもなかなか上手くいきませんね。出来は全然よくありません。

 

テレビリモコンのお話

あなたは毎晩疲れた顔で帰宅し、私に触れてテレビをつける。

時々笑顔を見せるけど、それ以外はいつも少し憂いを帯びた顔。

チャンネルを変えるように、あなたの気分をぱっと切り替えられたら良いのにな。

日々触れられ体力を消耗し、死ぬたびに電池を交換され、何度も生き返る。

生まれて死ぬを繰り返し、記憶はどんどん蓄積されていく。

教育番組で誰かが言っていた、永劫回帰

あなたに何も出来ない、私の無意味な生命。

この生命に向き合って何度も生死を繰り返せば、自分を変えられるのだろうか。

あなたのために何かすることができるようになるのだろうか。

 

 

テレビリモコンの気持ちを想像して書いてみました。何か変ですね。

また気が向いたら何かしら書いてみたいです。

ではまた。