散歩やサイクリングの美点について

昔から運動はあまり好きではなかった。運動で胸のあたりが苦しくなるのが嫌いで、物心ついた時から安静にすることを好んでいた。でも出来ないわけでは無かった。平均並みと言ったところだろうか。

小学生中学年頃から、苦しみや疲れを感じずに体を動かせられるような運動が存在すれば…と思っていた。そんな相反する要素が両立する世界は存在しないことはわかっていて、すぐに諦めた。しかし、両立はしないがそれに近いものがあることもわかっていた。それはサイクリングだった。だからちょっとした移動には必ず自転車を使っていた。走るよりも疲れず、かつ気持ちよく運動できることに強い快感を覚えていた。

高校生になって散歩というものを覚えた。そしてこの歳になって散歩の魅力に気づいた。これも苦しくなったり疲れたりせずにできる運動だ。最近はよく好んでするようになっている。

何で私はこんな運動を求めているのだろう、と時々考えることがある。古代ギリシャの文化からわかるように、強い負荷のかかる運動の美徳が語られてきている。これが人間の本来のあり方だ、とでも言うかのように。頭ではわかっている。が、体はそうはいかない。

そこでふと思った。私の場合、負荷の強い運動をする際は他のことを考える余裕が無い。それでも考え事をすることはあるが、そうするとタイムが下がるなどパフォーマンス面が大きく劣ってしまう。しかし私の求めている運動だと考え事の余裕が生じる。その余裕が貴重な機会にさえなる。だってちょっとしたサイクリングや散歩にはパフォーマンスなんてかけらも無いから。

これには個人差があると思うが、私は運動より思考を好む傾向にある。だから後者を優先できる運動を好むのだろう。ひょっとしたら人間の本質により根ざしているのは運動よりも思考なのかもしれないな。それは考えすぎか。

と言うわけで今日も私は散歩をする。